しょうがない夢更新〜快感フレーズに嫉妬して〜

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矢崎仁司『三月のライオン』

忘却を生き抜くために。

 

  • 矢崎仁司監督『三月のライオン』(1991年)評。物語は映画冒頭、文字によって語られます。兄を愛して止まなかった妹。とある事故で記憶喪失になった兄。その兄に対して自分は恋人であると妹は告げ、そこから始まる二人の生活を坦々と、抑制を利かせながら描かれていきます。

近親相姦というエキセントリックで、ある種観る人を極度に選んでしまいそうなワードで語られる事が多い本作品ですが、そういった一語に収斂される物語ではなく、記憶を、つまり忘却と捏造を生きる/に取り憑かれている人間の“どうしようもなさ”をより強く感じた作品でした。

 

以降ネタばれあるので、知りたくない人はご注意を。

 

彼らが一緒に住まう事になるビルの一室は、かつて誰かが住んではいたが今や忘れ去られようとしている部屋です。周りは新興の集合住宅、ビルが立ち並び、古くなった建物の解体作業が常々行われているような場所。それはまぎれもなく街の記憶の破壊、忘却、そして捏造と言っていいでしょう。歴史、意味(それはおそらく政治的なものだったはずですが、)というものが剥ぎ取られ、そこには肩車で柿をもぎ取るシーンに象徴されるような朽ち果てた木造の廃屋に特有の扱いづらさはありません。

記憶というものが物、景観、人、ものの手触りや匂いといったものを通して立ち現れる、個人的でも社会的でもないものとするなら、その生々しさは僅かに残りながらもこの街から徹底して脱色されつつあります。街全体が一種の記憶喪失の状態と言えるでしょう。屋上から観える景色は、まるでおもちゃのように立体感のないビルの群れとのっぺりとした空でした。人の生きる空間、社会としての中景が抜け落ちてしまった世界。その世界は二人の間で完結してしまっているが故に、その行動、営みが我々から観てどんなに奇妙・軽薄・無知蒙昧の極みに見えても彼らなりの一つの幸せの享受の仕方にすぎない。しかし、その幸せは同時に不安を抱え込まざるを得ません。なぜならば、その愛が、そして愛を育む場である街さえもが捏造されたものであるからです。

この愛が本来的なものではないという事を妹は知っています。

「愛するということを思い出した」という兄の語りに対して妹が「私じゃない」と明確に述べてしまう場面が決定的でしょう。

彼女はまるでその不安を埋めようとするかのように、自らの出自・歴史を確認するかのように街のいたる所に自分を撮ったポラロイド写真を貼付けます。(思えば写真とは単なる過去の一瞬を切り取ったものではなく、過去を再現し眺めその中に入っていく為の小さな記憶装置でもありはしないでしょうか?)

しかし、そんな彼女を愚かだと断罪できないのは、私達の誰もが何かを忘れてしまいたいという欲望、自分の出自・歴史・その過程で育まれてきたアイデンティティーへの猜疑心/不安から決して逃れられる存在ではないからでしょう。

この映画にはそんなさびしさを補って余りある忘却が前提にあった事を忘れてはなりません。その忘却を生きなければならない時、どうすればいいのか。兄が記憶を徐々に回復していく契機となったのは、古くなった建物の解体作業への参加でした。それは記憶喪失であるという自己を捉え返す事、かつての自分の歴史の切断を生き直す事へと繋がります。捏造を捏造としてではなく、再構築すること(無論、捏造も含まれます)。ニュータウンに生まれ育ち、街が記憶喪失であることが所与の条件であった世代がそこに幾らかの希望を見てはだめでしょうか。

「あんなことしなければ、、」「あの時、あぁしていたら、、」「あの時に戻りたい、、」といった忘却と捏造を再構築して生きる為に、その切断、あるいは分岐点を「いま、ここ」に見出す事。兄の子を妹が出産する最後のシーンは極めて救い難いことではありますが、どこか希望的に見えてしまうのは愛するという事がそれと同じくらいに特権的であるからかもしれません。

 
三月のライオン(トールサイズ廉価版) [DVD]

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本谷有希子 『クレイジーハニー』

 

希望がないことの希望

 

 

 

第一回目は本谷有希子作・演出の舞台「クレイジーハニー」評です。本作が初舞台の女ウォンビンこと長澤まさみ、イラスト・デザイン・文筆業そして俳優業までもという多岐にわたる分野で活躍しアイドルを食い物にするリリーフランキー(全男子の敵?!いやいや、、きっと魅力ある人なんでしょう、、うへぇ〜、、、)。これみよがしに垂らされた強烈なフック(こんなこと書くと直ぐさま「似非サブカル野郎!」と文句が飛んできそうですが、このキャストがより多く、広くの人に波及する機能を持ち得る事は否定できないでしょう。そういう意味だよっ豚野郎!)に、取り敢えずはまぁーまんまと引っかかったという体でみなさん機会があれば是非観てほしい作品でした。

 

 

 

この物語の主人公であるひろみ結城は徹底的に自らを支えようとしてくれる人たちを罵倒します。

 

 

 

「悔しくてならないのは、皆さんが私を応援していると虫のいい寝言をほざいたまま、いつか、ああ、ひろみももう終わりだ、あいつは完全に道を踏み外したよなどと私の人生を分析する姿がありありと想像できるからです。」(←個人的に一番悩まされた台詞...)

 

「なぜそんなにも人が自分の意見を聞くなんて信じているのでしょうか?」

 

「なぜ自分の反応を疑いもなく伝えようとするのでしょうか?」

 

「気付いてください。人と人が繋がりたいなんて暴力です。あなたたちは怪物です。」

 

 

 

誰か、何か、のファンであることを経験した事がある人に、この言葉は果たしてどう響くでしょうか。応援という言葉に代表されるようなファンのスタンスでさえ、「そんなこと誰がやってくれって頼んだ?」と罵倒される始末。ファンの存在に依って曲がりなりにも今の自分が存在/成立しているということを透過して、ファンの共有したい、支えたいという思い自体を断罪するのです。が、共依存的関係が事実としてある以上その断罪は自己へと帰結せざるを得ません。

 

そんな彼女も実は、品性がありつつ最も社会的に疎外される立場にいるまきちゃんとつるむ/関係をもつ事でしか自分の存在意義を見出せない存在として描かれます。

 

人と繋がりたいなどと希求するのは結局てめぇが満足する為に言い訳で、、しかも他人の人生使って、、怪物、、、
果たして出口はあるのでしょうか。

 

 
しかし。しかしですよ?他者の為に生きる事とエゴイズム、合理性と非合理性、真実と誤謬、一貫性がないどころか平然と矛盾する気分/感情が同居する心を持つのが人間であるとするならば、もはや怪物でない人間はこの世にいないのではないでしょうか。人間は怪物であることを免れ得ない。それを責めても出口はない。

 

 

 

ならばどうするか。どう誠実に怪物であろうとするか。ここには工夫の余地があります。それは容易く「連帯」や「絆」を謳ったり、わかり合えるという盲目の前提から出発することではないはずです。厳密に自分と同じルールで生きている人などいない(そのルールを適用すればあらゆる人に非常識を見出せてしまう。)、つまりわかりあえていないということから出発し、そしてルールの共有が果たし得ない場合にどう折り合いを付けながら生きていくのかを模索する。逆に言えば、排他性から完全に自由な人間などいないのです。ある共同体内での平等の調達は必然的に外部の排除を含んでしまいます。ここで最も危険なのは自分だけが違う思うことではないでしょうか。ひろみがそうであったように、です。

 

 
彼女は結局ファンという一つの共同体を失ってしまいました。信仰という全肯定が一気に全否定へと裏返る終盤は全肯定のあやうさとあやふやさをそこに見ずにいられません。そしてそれはひろみ自身の絶望と希望の表裏の関係として最後描かれます。

 

 

 

またこの作品ではファンコミュニティ内の集団的意識も非常によく描かれていたように思えます。仲間、絆、連帯というものが居心地の良さを保証し、またそれは共同体からの離脱不可能性をも強めてしまう、という回路。(共同体の構想、つまり連帯と離脱の自由が如何に困難か。この問題に明確な答えをまだ私は持ちませし、それについてはまたどこかで。)

 

そして小説、果ては何かを書くということ(こうして私もネットに書いている訳ですが。)に付いてまわる〈残ってしまう事の残酷さ〉、〈残らず消え果ててなくなってしまう事の残酷さ〉はどのような愛をもって生きていけるのか。

 

などなど個人的には非常に多くの示唆に富んだ作品でした。

 

 

 

今回はDVDという媒体でしたが、自分に舞台というまたとない新たな未知/道が準備されたことを祝福しつつ。

 

以後も、ある意味では無頓着を佳味することを求めて繰られた文字がページを踊ると思われますが、初回はこれでおしまいということで。ではでは。

 

 

 

CRAZY HONEY (PARCO劇場DVD)

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